上海での東亜同文書院大学時代に求めたもの。日本への一時帰国(同文書院大学学長辞任時)を考えた折、自分の荷物と一緒に送った中の「逸品」である。これは敗戦引揚げ時に持出しを許されるものではない林則徐の書による貴重な掛軸。
1800年代イギリスの資本主義は市場開拓として極東の清国に狙いを定め、インド産のアヘンを輸出し巨利を得ようとした。アヘンはモルヒネを成分とする麻薬の一種で、吸引することによって人体に有害な作用を及ぼす。中毒作用を起こしたり、神経・精神障害も起こす。
政治家・林則徐は、国家存亡の危機と感じ、欽差大臣(特命大臣)としてイギリス商人の持ち込んだアヘン2万箱を押収焼却、関係者を処刑するなど強硬な態度をとって国を守ろうとした。ちなみに日本のアヘン法は1954年に制定されている。
そのような愛国精神を持つ林則徐の心意気に惚れた本間は、この掛軸を有識者より譲り受け、日本へ帰国後も当時本間喜一の住居であった愛知大学公館にいつも飾っていたという。
本間自身にも、正義を貫いたエピソードがいくつかある。敗戦後の日本でも、千葉県沖で油を垂れ流して逃げたアメリカ船に対して損害補償4億円を勝ち取って、漁民の生活を確保維持したという逸話が残っている。
本間は最高裁判所事務総長(1947年)になった時、三淵忠彦長官から「本間君、吾々は天下の大道を歩こうよ。よしや(たとえ)、抜け道や裏道があっても、その方が近いということが分かっていても、それは止そう」と言われた。長官と事務総長は表裏一体、新憲法のもと、正々堂々と貫いたいくつかの例がある。