これは、南京同文書院および東亜同文書院院長を務めた根津一がしたためた書である。
根津一(1860~1927年)は甲斐(現在の山梨県)出身。陸軍教導団、陸軍士官学校を経て陸軍大学校へ入学後、ドイツ人教官メッケルと対立し不本意ながら退学した。その後、陸軍教導団時代以来の盟友であった荒尾精が、1890(明治23)年に上海で日清貿易研究所を開設すると、その運営に尽力した。1894年に日清戦争が勃発すると従軍し、戦後は京都で隠棲していたものの、東亜同文会会長近衞篤麿に見い出され、1900年東亜同文会に入会した。同年5月、近衞篤麿が日清友好を担う人材を育成することを構想し、開校した「南京同文書院」が清国南京に開校すると、根津一は初代院長を務めた。
南京同文書院は、当時清国北部で発生していた義和団事件の影響で南京の治安が悪化したことなどにより、開校からわずか3ヵ月余りで上海へ移転し、翌1901年、上海にて東亜同文書院の再出発がされた。根津は東亜同文書院でも初代院長(1901~1902年)・第三代院長(1903~1923年)を務め、東亜同文書院45年のうち実に23年間院長を務めた。
院長根津一の思想の土台には儒教があったといわれているが、それは『論語』、『中庸』、『孟子』とともに儒教の代表的な経典とされる『大学』(天下国家の政治もその基本は一身の修養にあることを説いた書)を、幼少の頃より好んだことに大きく影響している。教育面においては、東亜同文書院院長職のかたわら科目「倫理」を自ら担当し、中国明代の思想家・王陽明(1472~1528年)がまとめた上記『大学』の注釈本『古本(こほん)大学』を教材として、学生の人格教育を行った。
ここで展示する根津一書「失諸正鵠求諸其身」(諸(こ)れを正鵠(せいこく)に失(しっ)すれば、諸れをその身に求む)は、『中庸』(偏らず変わらないこと=中庸の徳は、人の高貴な本性である「誠」に基づいて完成すると説いた書)に登場する「子曰、射有似乎君子、失諸正鵠、反求諸其身」(子曰わく、射(しゃ)は君子に似たるところ有り、諸(こ)れを正鵠(せいこく)に失(しっ)すれば、反(かえ)って諸れをその身に求む)の後半部分をもとにしたためたと思われる。なお、『中庸』とは、「弓を射ることは君子に似たところがある。的(=正鵠)が外れて失敗すると、自分で反省してその原因を他に求めず、我と我が身について求める」というものである。