2月21日、愛知大学豊橋校舎にて東亜同文書院大学記念センター主催のシンポジウム「海外からの大学引き揚げをめぐる問題とその位相 ―東亜同文書院から愛知大学への人事的接合性と自国文化への接合-」が開催されました。
開催にあたり、神野信郎氏からご挨拶をいただきました。神野信郎氏は、中部ガス株式会社相談役、サーラグループ名誉顧問、ホテルアークリッシュ豊橋相談役に就任されているほか、長年愛知大学の理事として大学経営に関わってこられた、本学の名誉役員でもあられます。それだけでなく、お父上神野太郎氏は海外からの大学引き揚げという特殊な事情を理解され、創設期の愛知大学への物心両面にわたる支援をされた方で した。
以下、シンポジウムでの神野信郎氏のご挨拶を紹介いたします。ご挨拶では創設期の愛知大学教員と神野家のつながりの深さにも触れていただきました。
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皆さん、こんにちは。中部ガス・相談役、愛知大学・名誉役員の神野信郎でございます。本日は、愛知大学東亜同文書院大学記念センター主催の2015年度シンポジウム「海外からの大学引き揚げをめぐる問題とその位相-東亜同文書院大学から愛知大学への人事的接合性と自国文化への接合-」に際しまして、私の父であります神野太郎と愛知大学との関係につきましてお話しをさせていただきます。また、今年は、70周年誠におめでとうございます。
まず、私のことについて触れますと、私は、1982年(昭和57年)4月に愛知大学の理事・評議員に就任を致しました。その間大学は大きな変換を遂げまして、様々な苦悩を克服しながら、2011年(平成23年)5月の退任まで、29年間にわたりまして勤務をさせていただきました。私の退任後は、中部ガスの中村捷二会長が理事・評議員に就任し、現在も活発な外部理事として活躍しているという風に思っております。
私は、2009年に理事会の下に設置されました「ガバナンス検討委員会」の委員に前学長の佐藤元彦先生に任命をされまして、顕在化した諸問題に対応する組織の体制強化と充実に寄与してまいりました。愛知大学が持っております、かつてのこの地方の老舗としての大学の体制を新しい時代に変革する必要性がございました。私の最後の年である2011年3月に「最終答申」が提出されまして、私の愛知大学・理事としての経歴が終了を致しました。私は愛知大学の新しい時代の変革に多くの時間を費やしましたけれども、その間大変色々なことに勉強をさせていただき、今日、ここに出席をさせていただいております。
さて、愛知大学が設立をされましたのは、私が豊橋中学校4年生の時でございました。昭和21年11月15日に、愛知大学設置許可が文部大臣田中耕太郎さんから出されました。豊橋の戦後文化発展の最も大きな要因がこの愛知大学の創立であったと、私は今でも思っております。敗戦とともに上海にあった東亜同文書院大学は、最後の学長であります本間喜一先生、小岩井淨先生らが、当時の戦後日本での復活に全力を挙げられておられました。そして、多くの様々な障害を乗り越えまして、昭和21年5月に、東京で先生らがお集まりになられまして、大学の候補地として、久留米、豊橋、鎌倉、その他色々な数市の中から、豊橋が第一候補になりました。当時私は、中学生でありましたけれど、戦後、東三河の大きな変革の中で愛知大学が創立をされたということを考えております。
豊橋は当時、3つの問題がございました。一つは、中部地方に法文系の大学が存在しなくて、将来は一中部地方に限らず全国的な大学をめざすことで優秀な学生を集めることができること、二つ目は、軍の関係の建物の借用が非常にたくさんあって有望であること、そして三つ目は、豊橋市及びその付近は甘藷の大産地でありまして、学生2~3,000名の方を収容する大学ができても食料不安のないということ、この三つが非常に大きな要因になったと、いう風に思っております。本間先生は、当時の横田忍豊橋市長に協力をお願い致しまして、豊橋市長の確約を取り付けたことから、第一の候補となったのであります。
当時、私の父神野太郎は、名古屋の神野金之助、あるいは当時この地区の政界を牛耳んしておりました河合陸郎さんらと相談を致しまして、私の祖父神野三郎と共に、神野新田の最終的な改革に全力を注いでおりました。小作農から自作農に全面的に転換をするというのが政府の方針でありまして、その方針の1年前にそれを実現しようと画策しておりました。
当時、三井信託銀行時代の同級生でありました文部大臣の弟である田中吉備彦さんをはじめとする多くの方々から、愛知大学の情報が寄せられておりまして、父は地元の与論の中心的な人物の一人でもありましたので、当時は全力をあげてこの問題に取り組んでおりました。当時豊橋市は、愛知大学創立費の一部として金50万円の寄附を決定したところでございます。
愛知大学は、東亜同文書院、京城帝国大学、台北帝国大学等の先生が豊橋に集まりまして、そして初代学長には、前慶應義塾塾長で、枢密顧問官の林毅陸法学博士に決定を致しました。12月8日に転入学試験が実施されまして、490名の応募者のなかから、404名を合格者としました。当時愛知大学は、「そのめざすべき将来の道」と題しまして、3つのことを掲げております。一つは、「日本の現状に鑑み、学問を尊重する進歩的な空気に充ちた学府の樹立」。二つ目は、「中部日本の地方的文化空白を補う」。三つ目は、「国際的視野と国際的教養に基づく人材の養成」。この3つでございました。
設立当時は大学予科のみ400名の学生でありましたけれども、翌年に法経学部、またその翌年の昭和24年には、文学部と名古屋分校を設置致しました。昭和29年には大学院、短大、その他法経学部第二部の設置と順次拡大を致しまして、学生数も4,000名を超えるに至りました。
図書館につきましても、東京の旧霞山会館の45,000冊を仕入れまして、昭和22年5月には元住友本社小倉正恒理事の漢籍約30,000冊が父神野太郎の推薦を通じまして梅村清氏から寄附されるなど、毎年増加の一途をたどり、愛知大学は着実に大きく成長しておりました。
愛知大学創立当時、後の最高裁判所長官の三渕忠彦先生は愛知大学の顧問でございました。三渕先生は信託法の権威で、父神野太郎は慶應でこの方のゼミに属しておりまして、卒論も信託法をテーマにしたことから三井信託銀行に入社を致しました。この三淵先生をはじめと致しまして、愛知大学の中心的な人物でありまし た本間喜一先生、あるいは愛知大学初代学長の林毅陸先生も慶應義塾時代の塾長であり、父神野太郎との深い繋がりがあります。そして本間先生と共に愛知大学創立に尽力されておられました三代目学長であります小岩井淨先生など、ほとんど毎週のように我が家に訪れまして、創立時から数年間、神野新田開拓で忙しい祖父や父を訪問しまして、すき焼きや鰻丼などを食べて鋭気を養ったようであります。私もその席に出席を致しまして、大変和やかな会合であったと記憶しております。特に、その後亡くなりましたけれども、祖父の神野三郎は「私も世が世であったのなら、共産党になったかもしれないよ」と大笑いをしたことがございます。田舎の料理を中心にしながら、音楽を聴き、涙を流して毎週楽しんでいたことを今もって思い出しております。父は、昭和22年10月に愛知大学の理事に就任を致しまして、昭和51年11月に永年勤続理事として表彰を受け、昭和57年4月に退任を致しました。死の直前まで父は、愛知大学にすべてを注いだような感じが致しております。
父の「神野太郎伝」には、色々な追想録がでております。そのなかで、本間喜一先生について、『温厚、清廉、率直で真に尊敬する紳士で、時々の談笑の間に拝聴するに値する人物放談などは非常に参考になった。特に、愛知大学創立の精神である日中友好の使命が着々とその後実施されておりまして、錦上花を添えたと思うことひとしおであります。』と書いております。
また、久曽神昇先生についても『牟呂吉田村に生まれた私は、子供の頃から神野家を良く知っている。結婚後は岳父清水熊太郎の関係で接する機会も多く、豊橋ロータリーに入会し多大なるご指導をいただいた。』と書いております。
この様に、父太郎は愛知大学の創設に大きく貢献を致しました。愛知大学のその後の成長と発展と今日の存在は、多くの課題を抱えた中で、関係する多くの先生方の未来を築く努力の結晶でございまして、本間喜一先生をはじめとする多数の先輩や皆様のご指導の賜物であると、心から感謝を申し上げたいと思っております。
今後も、様々な多くの挑戦に向かいまして、諸先生の心からなる使命感で、最初のテーマでございます「国際社会に存在する貴重な大学」として発展をすることを心から祈念を致しております。また、同時に私の郷里でございます豊橋に原点を置かれた先輩の志を大切に「心の纏め」としていただきまして、「中部で新しい 大学の中枢の創造」をぜひ思いうかべなから、愛知大学が、豊橋のそして愛知県の日本の、さらに世界の主導的、先導的な大学になっていただくことを心から祈念致したいと思っております。
愛知大学には、越知専君、甲斐一政君、河合秀敏さん、藤田佳久先生をはじめとする非常に多くの先生方がお見えになられます。今日はこのように先生方にお話しできましたことを心から厚く御礼を申し上げ、私のご挨拶と致します。どうもありがとうございました。