愛知大学記念館(愛知大学東亜同文書院大学記念センター)

Roots & History

「東亜同文書院」「愛知大学」創成の奇跡
19世紀以降、将来を見据えて始動した日本のグローバル教育の変遷

1.東アジアへの窓口になった上海

19世紀に入ると世界の海を征し、東インド会社を核として東アジアへ進出したイギリスは、清国からの茶の輸入を増大させ、その輸入超過の見返りにアヘンを清国に浸透させるようになりました。
それを警戒した清国は林則徐を対抗させ、イギリスとアヘン戦争(1840~42)になりました。武力に長じていたイギリスはこのアヘン戦争に勝利すると、清国との間に南京条約を結び、5つの港を国外へ開放することになり、上海はその開港の一つとなりました。すぐにイギリスは上海の北側にイギリス専管の「租界」を設けました。
これが上海の国際化への幕開けとなります。すると、それを見たフランスも清国と交渉し、フランス「租界」を認めさせ、アメリカも追随しました。イギリス「租界」とアメリカ「租界」は1863年に「共同租界」へと展開し、さらに1894年には日清戦争に勝利した日本もこの「共同租界」へ進出しました。

こうしてイギリスとフランス、さらにアメリカの「租界」が設けられた上海は、欧米の清国に対する貿易拠点となり、そして鎖国中の日本の近海へも出没するようになりました。幕府は警戒し、開国の是非で国内が割れることになります。
そこで幕府はついに長年の鎖国政策を転換し、幕末に各藩の藩士を集め、オランダ、イギリスを介して上海への貿易と外交勢力の実情調査のため「千歳丸」を上海へ派遣します。室町時代以降の初の貿易の試みでしたが、うまくはいかず、その後、4回派遣をして上海の調査をしています。
幕末に長州藩や薩摩藩はイギリスと戦い敗北を経験したことにより、近代化された武器の威力を知り得ました。そこで、上海を舞台にイギリスやフランスと武器の密貿易を行い、藩の強化を図り、それが倒幕の明治維新につながりました。

2.上海での国際商人・岸田吟香と荒尾精

日本にとって上海は、上段1の経過から、鎖国時代の長崎と同じように新生日本の外国への窓口になりました。
そんな中、幕末にヘボンにつれられ和英辞書『和英語林集成』の印刷のために上海を訪れた岸田吟香は、短期間ながら持前の竹画を通じて上海の文化人や商人達との交流を行い、文字通り民間外交のパイオニアになりました。
岸田吟香はヘボンの目薬処方を習得し、帰国した東京、そして再び訪れた上海に「楽善堂」を開店し、目薬を販売して大きな成功を収め、日本人として初の国際商人といえるほどの存在になりました。
さらに日本では初の新聞社の立ち上げや記者、船会社、印刷出版、石油採掘、社会事業と多岐な事業家にもなり、息子の岸田劉生は「麗子(れいこ)像」で有名です。

なお、この岸田劉生の弟子である愛知県豊橋市・豊川堂書店の高須光治は戦後「愛知大学」のロゴを創案し、愛知大学の校旗や校章に使われています。
この岸田吟香を上海滞在中に訪ね、日清提携への活動について教えを請うたのが荒尾精でした。
彼は明治維新後、父の士族失業により名古屋から上京したものの、父親の商売失敗とその後両親を亡くしたことにより、荒尾は書生として近くの警察署長宅に寄宿することになりました。
そこで彼は折からの朝鮮とその背後にいた清国の存在などアジア情報に関心を抱くことになったのです。

清国への多大な関心は、陸軍士官学校卒業後には清国を実際に訪れたいとの夢に変わります。
荒尾は清国が西欧に侵食されていて、それが日本へも及ぶのではないかと危惧し、陸軍士官学校時代に日本は清国と貿易を進めることで経済力をつけ、清国とともに西欧列強に対する抵抗力を持てるという構想を持ったのです。
士官学校時代の親友根津一は荒尾のこの構想に強く惹かれ、両人は意気投合。根津はそのあと荒尾をずっと支えることになります。

3.荒尾精が開いた私塾

岸田吟香は荒尾のこの日清提携構想(上段2記載)と清国の実情を知りたいという強い熱意を受け、清国中央部の漢口(現在の武漢)に楽善堂の支店を設け、荒尾に支店長を任じ目薬と本屋を開きながら、中国の実態に触れられるように援助したのです。
そんな時期、日本の東北地方での戊辰戦争や九州での西南戦争で官軍に敗れ、政府から見放されたと感じ、清国へ渡った若者たちがいました。
荒尾は彼らを集めて清国を知る私塾的な会をつくり勉強させ、各地を巡らせたのです。
清国は広大なため勉強はそう簡単ではなく、塾生達の多くは清国各地への調査中に行方不明や殺されるという痛ましい事例もあり、荒尾は心を痛めました。

こうして約3年間、清国への理解を深め、その成果を親友の根津一にまとめさせ、『清国通商綜覧』として1892年に刊行(丸善)したのです。日本人にとって漢詩・漢文の世界ではなく、現実の清国を知ることができる初めての刊行物であったため、ベストセラーになりました。

4.荒尾精の日清貿易研究所

荒尾精は、清国での活動から本格的な貿易実務者を養成するビジネス学校が必要だと痛感し(上記3記載)、帰国後はその学校設立に奔走します。
場所は国際ビジネス都市になっていた上海です。
その際、資金確保が特に重要で、それについては日本政府が保証してくれたため学校名を「日清貿易研究所」とし、日本全国で学生募集を実施し、150人が集まりました。

こうして軌道に乗ったかにみえた新たなビジネス学校でしたが、支持してくれた日本政府の内閣が変わったことにより、政府の保証を失いました。
荒尾は窮地に陥入るものの、何とか劇的な対処をし、1890年開校にこぎつけました。
清語学(中国語)、英語学、商業地理、支那商業史、経済学等の実業科目を揃えました。
しかし資金不足もあり、学生の半数近くが退学し、卒業者数は89名でした。
しかも卒業直後、日清戦争が起り、清国語のできる卒業生の半分は通訳で従軍させられ、多くが戦死しました。
荒尾のショックは大きく、彼らの死を弔うため、京都の東山に隠棲してしまうほどでした。
しかし、研究所に学んだ白岩竜平らは汽船会社を立ち上げるなど、日清間をつなぐ役割を果たす人材となりました。

そんな経緯の中、荒尾は戦後、あらためて本格的なビジネススクールとなる、のちの「東亜同文書院」構想を描くのです。

5.近衛篤麿と「南京同文書院」、「東京同文書院」

その一方、貴族であって開明的で行動的な近衞篤磨の登場がありました。
近衞は明治維新で小学生時代に京都から東京へ移りますが、ほとんど独学で英語を家庭教師のもとで修得し、イギリスかアメリカへの留学を計画します。
しかし、折からの自由民権運動に加担するのを恐れた日本政府の三条実美らに反対され、結局、プロシャ(現ドイツ)、オーストリアへの留学に変更します。
留学中、近衞は現地でドイツ語をマスターし、6年間でドイツ語の論文で学位をとり、すぐれたリーダーとしての地位を重ねます。
近衞は藩閥政治や軍人嫌いで、貴族こそがリーダーとして活躍すべきだと学習院長時には、その改革をすすめます。

そして2度目の外遊でアメリカ、ロシア、バルカン、プロシャなどを辿り、西欧列強の東アジア戦略を知ります。
そこでその帰路、清国へ立ち寄り劉坤一、張之洞ら指導者に会い、清国の教育レベルを上げることも西欧列強に対する抵抗力になると主張し、南京に日清学生が共学する「南京同文書院」開設への認可、協力を得ます。
清国側からは即座に留学生の送付の計画も出され、近衞は帰国後の1899年に、清国留学生の受入学校として東京目白の自宅敷地に「東京同文書院」を開設します。

6.「東亜同文書院」の誕生と根津一

1900年、近衞は南京に日本人と清国人共学の「南京同文書院」を開学しましたが、その半年後、折からの義和団の乱が拡大し南京を攻める恐れが強くなったため、「租界」のある上海へ移転します。
そして、そこで前述した荒尾精が構想していた新たなビジネス学校案と合体し、1901年上海南郊の高昌廟に「東亜同文書院」を誕生したのです。

なお、前述のような動きの背後で、日清戦争後、従来の欧米指向でなく、アジアへ目を向けるいくつかの組織が生まれます。
そのうちの2大組織で、犬養毅らの「東亜会」と近衞が代表する「同文会」が合体し、「東亜同文会」が誕生します。
そして同文会会長であった近衞篤麿が新組織の会長になります。
その主旨は東亜会がもっていた政治的匂いを弱め、日清間の教育文化事業に重点を置き、「東亜同文書院」の学校経営や大陸での各学校、新聞社への支援や出版事業を行うなど東アジアの共存を目指す強力な組織となります。

新生「東亜同文書院」は院長に根津一が就任し、根津は60歳過ぎまで書院の顔として教育に力を注ぎました。
「倫理」の授業を持ち、書院生に倫理感を具える実業家になるよう指導をしました。
それは折しもヨーロッパでマックスウェーバーが論じた資本主義を包んだプロテスタンティズムの東洋版に匹敵するものでした。
中国大陸や東南アジアなどで経営者や、実業家になった書院卒業生は、現地の人々に慕われ、太平洋戦争直後、引揚げの時に、彼らは大陸の従業員たちから惜しまれ、送別会を催されたそうです。
その背景には、書院生が在学最終年度に「大調査旅行」として徒歩中心で3~6カ月間貿易品調査、地域調査を行い、現地の人々とも親しく交流していたことがありました。

「東亜同文書院」は1939年旧制大学へ昇格します。
戦時色が深まる中、倫理感を持ち得るビジネスマンや実業家になるよう指導される伝統は継続されました。
帰国後、その倫理感が日本の高度経済成長において大いに発揮されたという事実は、もっと知られるべきでしょう。

こうして荒尾精、近衞篤麿、根津一の3人の書院の「三先覚」「三聖人」は相互につながり「日清貿易研究所」から「東亜同文書院」そして、「東亜同文書院大学」へと発展させてきたのです。
しかし、荒尾精、近衞篤麿がそれぞれの役割を果たす途上で早逝したことにより、その後、日本が東アジア戦略の乱れを抑えらず悲劇をもたらした、ともいえるでしょう。

7.東亜同文書院「愛知大学」誕生へ

荒尾精、近衞篤麿、根津一の「三先覚」、「三聖人」の思いを最終的に受け取ったのが「東亜同文書院大学」最後の学長である本間喜一でした。
本間は戦時下の最も厳しい時に学長に就任しました。
1943年にはそれまで戦争に距離を置いてきた書院も、学徒出陣には対応せざるをえず、そんな中、出陣(通訳が多かった)する学生達に「生きて帰ってこい」と内地の大学ではありえない言葉をかけて送り出しています。
国際都市上海ゆえに日本の負けを予測した本間は富山県呉羽(くれは)に分校を設け、1945年の入学生をそこで受け入れています。
そして終戦直後、佐伯呉羽分校長は書院のこれまでの日中関係に果たした役割をまとめ、戦後もその存続を外務省へ願い出ています。
そして書院の教育活動を評価した外務大臣吉田茂がその願い出を承認し、1945年10月に書院は呉羽で復活し、300余名の書院生が呉羽校舎に集まりました。

しかし、経営母体の東亜同文会会長近衞文麿は、東京裁判出頭の前夜自殺し、東亜同文会は閉鎖されたため、復活した「東亜同文書院大学」も閉校せざるをえなくなりました。
そこで、本間学長は新大学模索を指示し、呉羽校舎のスタッフにより豊橋市街地南郊の旧陸軍第15師団(のち教導学校、陸軍予備士官学校)跡を素早く入手させ、GHQの厳しい監視の下、「愛知大学」を誕生させたのです。(書院の名称は使えなかった)
6大都市以外では初の旧制大学であり、終戦の翌1946年11月15日に設立認可を受けました。
これも東亜同文書院の太い流れのうえに、本間学長への信頼度による幅広い人脈が最高に発揮された賜でしょう。

こうして誕生した「愛知大学」へは、東亜同文書院からの編入生が最多でしたが、海外にあった各種の学生たちの「総合引揚大学」的な存在となり、また国内の各大学や高専などの学生も入学し、国内では他に例をみない異色の学校としてスタートしました。
設立趣意書に「国際的教養と視野をもった人材の養成」「地域社会文化への貢献」を掲げたのも書院以来の伝統が継承されたものといえます。