愛知大学記念館(愛知大学東亜同文書院大学記念センター)

明治日本の近代遺産「愛知大学記念館」

愛知大学記念館は、豊橋市高師台にある愛知大学豊橋キャンパスの南側の正門近くにあります。
日露戦争後に、東海地方に増設された陸軍第十五師団本部の司令部棟として、1908(明治41)年に建築されました。

大学記念館は、約1,800平方メートルの木造2階建てで、コの字型の両翼を持ち、1階の上に2階が乗る神楽造りです。
豊橋で最初の本格的な洋風建築物で、当時の場所に今も佇んでいます。英・独・仏・伊国風の様式や飾りが施されており、豊橋の大工や宮大工が全国を巡り勉強した汗の結晶といえます。

外観は白く塗られたドイツ下見板で纏われ、屋根は寄棟造の桟瓦葺き(さんがわらぶき)が葺かれ、陸軍の★印の瓦も現存します。
建物中央にはペディメント(西洋の古典建築で、切妻屋根の妻壁にできる三角形の部分)が載っています。

1階中央部には玄関があり、重厚な石段を4段上がると中扉があります。
建物内部は、1階、2階とも中央から東西に広がる中廊下があり、途中から北面に向けてコの字に繋がっています。
壁面は白で統一されており、古い建物特有の揺らいで見える窓ガラスや、彫り模様の天井などがあります。

建物の変遷は、1908(明治41)年から大正末期の1925(大正14)年における世界軍縮による師団廃止までの18年間、「陸軍第十五師団司令部棟」として利用され、その後「陸軍教導学校本部」、次いで「陸軍予備士官学校本部」となり、終戦に至りました。
1945(昭和20)年6月、豊橋市街地のほとんどが空襲で焼失しましたが、この施設は市街地から離れており、難を免れました。

戦後の1946(昭和21)年11月15日に、中国・上海にあった東亜同文書院大学の最後学長、本間喜一がこの施設と5万坪の敷地を利用し開学したのが愛知大学です。
豊橋市も開学に向けて積極的に支援をし、軍都から教育都市への転換を図ったのです。
多くの兵舎や建物は学生寮や講義棟、研究室に、練兵場はグランドに姿を変えました。

愛知大学創立後は、1996(平成8)年までの50年間、教職員にとって最も主要な建物「愛知大学本館」として活用されました。

1998(平成10)年に、文化庁から国の登録有形文化財に指定されました(登録番号:第23-0009号)。
これを機に「愛知大学記念館」と改め、学生への教育や一般公開をする博物館相当施設となっています。
2020年で築112年を数えます。

示室の紹介

1階

〔大学史展示室〕、〔書院関連の書 展示室〕、〔近衞家4代書 展示室〕、〔山田良政・純三郎兄弟、孫文 展示室〕等があります。
愛知大学とルーツ校にあたる東亜同文書院(大学)に係る大学史、東亜同文書院の教員で中国の革命に深く関わった山田良政・純三郎と孫文との関係を示す貴重な史資料や、近衞文麿・篤麿、犬養毅、の書など数多くを展示しています。

2階

正面には、陸軍第十五師団司令部時代には師団長室、戦後は学長室であった部屋を公開しています。
2階東側エリアには、〔愛知大学設立者 名誉学長本間喜一展示室〕、〔愛大公館展示室〕があります。
2階西側エリアには、愛知大学名誉博士平松礼二画伯展示室があります。
毎年、本学創立記念日11月15日前後に特別展覧会を開催しており、50数点の原画、屏風をご覧になれます。

知大学について

愛知大学の前身「東亜同文書院(後に大学)」は、1901年中国上海に設置され、日本の海外高等教育機関として最も古い歴史をもちます。
当時貴族院議長であった近衞篤麿が、東亜同文会を設立。
東亜同文会の理念は教育文化事業によって日中友好提携を成し遂げることにあり、そのための人材育成が東亜同文書院大学の設立目的でした。

アジア随一の国際都市であり、当時の文化や流行の発信地でもあった上海で、学問の自由を尊ぶ校風のもと、中国・アジア重視の国際人を養成。
しかし、日本の敗戦によって東亜同文書院大学は中国に接収、半世紀にわたる歴史の幕を閉じたのです。
その折、同大学最後の学長を務めた本間喜一(後に最高裁判所事務総長)は、新たな大学の設立を決意。
1946年5月、本間学長の呼びかけに東亜同文書院大学の教職員、学生の多くが集い、同年11月15日に愛知大学は中部地区唯一の旧制 法文系大学として誕生しました。

建学の精神として「世界文化と平和への貢献」、「国際的教養と視野をもった人材の育成」、「地域社会への貢献」を掲げ、現在もその具現化に向けて、取り組んでいます。