愛知大学記念館(愛知大学東亜同文書院大学記念センター)

展示室の紹介

愛知大学設立者・名誉学長間喜一展示室

愛知大学設立者・名誉学長本間喜一展示室では、愛知大学の実質的設立者で、第2代・4代学長であった本間喜一名誉学長(1891~1987年)の生涯にわたる関係資料、写真、パネル等で本間の生涯とともに、その人間像を紹介しています。山形県に生まれた本間喜一は、東京帝国大学を卒業後、裁判官を経て法学者の道を歩み、1940(昭和15)年には東亜同文書院大学教授となりました。

1945年、同大学が日本の敗戦により閉校とならざるを得なかった時、最後の学長として上海からの帰還時に、教職員や学生に『学籍簿』や『成績簿』をリュックサックなどに大切にしまって日本に持ち帰らせました。

1946年に愛知大学を創設し、その後第2代・4代学長に就任しました。東亜同文書院5,000名すべての『学籍簿』『成績簿』は、愛知大学に保管されています。

愛大館展示室

愛知大学公館は旧陸軍第15師団長官舎として建てられました。
第15師団が廃止された後は、陸軍共同学校・予備士官学校長の宿舎などに使われ、1946(昭和21)年の愛知大学創立に伴い、愛知大学学長公館や教員宿舎として利用されました。

建物は洋館と和館を併設した平屋建てで、洋館は公室、和館は私室として利用されたようです。
そんな様子がうかがえる愛知大学公館の内観や外観を説明パネルとともに紹介しています

大学史展示室―東亜同文書院の45年、愛知大学の75年―

愛知大学の大学史は、「1世紀を越える歩み」があります。愛知大学のルーツ校にあたる1901(明治34)年に中国上海に創立した東亜同文書院(大学)の45年間と、1946年(昭和21年)に愛知県豊橋市に創立し、2021年で75年を数えます。大学史展示室には、東亜同文書院(大学)と愛知大学のそれぞれの大学史とそのつながりを含めた変遷を軸に、「1世紀を越える歩み」に関する史資料や紹介パネルを多数展示・公開しています。

中でも、東亜同文書院(大学)45年間の『学籍簿』、『成績簿』、東亜同文書院で編纂準備のため作成していた華日辞典原稿カード(中国側に接収されていたが、日中国交正常化前の1954年、日中友好協会を通じて返還され、1968年『中日大辞典』に結実し刊行)、20世紀前半の近代中国を記録した貴重な「大調査旅行」の関係報告書、及び愛知大学設立許可申請書、は一見の価値があります。

愛知大学史展示室

1946年(昭和21年)5月30日、中国・上海にあった東亜同文書院大学最後の学長本間喜一と小岩井淨の両氏が、東京九段下の若宮旅館に書院の教職員を招集し、参加者13名により新大学の設立と9月開校が決議されました。設立地は、「大学の将来の発展」を見据えて、法文系大学のない中部地方のなかで、陸軍第15師団跡地の広大な敷地に校舎として利用できる建物があり、当時の横田市長と財政面等で強力な支援を約束できたことから、愛知県豊橋市が最適地として決定されました。
愛知大学は、1946年11月15日、昭和天皇によるご押印のうえ、吉田茂内閣総理大臣から旧制大学として許可されました。日本で第49番目に開学した愛知大学は、2021年で創立75年を数えます。戦後とともに歩んできた愛知大学の歴史を資料、パネル等で紹介しています。

山田良政・純三郎兄弟、孫文展示室

近代中国の革命家孫文に協力した東亜同文書院関係者である山田良政・純三郎兄弟に係る関係文献、中でも孫文と関係者の直筆書、掛け軸など孫文の妻・宋慶齢のサイン入り写真など、多数の史資料を展示しています。東亜同文書院の前身校・南京同文書院の教員だった山田良政は、書院を辞職して孫文が指揮する「恵州起義」(1900年)に参戦して戦死しましたが、弟の純三郎は東亜同文書院の教員を務めたのち、兄の遺志を継いで孫文の秘書役として活躍しました。

純三郎の四男である山田順造氏(東亜同文書院出身)は、父、伯父と孫文の深い関係を明らかにするため、貴重な多くの写真や文献を集められており、のちに愛知大学へ寄贈されました。

書院関連の書展示室

書院関連の書展示室では、東亜同文書院のルーツとなる日清貿易研究所を設立した荒尾精、東亜同文書院初代・3代院長根津一、その他大内暢三(第6院長・東亜同文書院大学初代学長)など東亜同文書院歴代院長の書、また、犬養毅(内閣総理大臣)の書を展示しています。

近衞家4代の書展示室

近衞家4代の書展示室では、東亜同文書院設立者である近衞篤麿(東亜同文会初代会長、貴族院議長)(文麿の父)、文麿(東亜同文書院代5代院長、東亜同文会会長、第34・38・39代内閣総理大臣)、忠煕(篤麿の祖父)、文隆(文麿の長男)といった近衞家4代にわたる書を展示しています。

東亜同文会は近衞篤麿を初代会長として誕生し、主に日中間の教育文化事業を担う団体として、40数年にわたり「南京同文書院」「東亜同文書院」の経営母体であり続けました。
そういったことから、近衞家と東亜同文書院の深いつながりがみえる展示室となっています。